執行役員

2007年5月、フランス大統領にニコラ・サルコジが決定。相撲を「髷を結った太った男達による、美しいとはいえないスポーツ」とこき下ろした事もあり、優勝力士に対する大統領表彰(ジャック・シラクの設けた「フランス共和国大統領杯」)は廃止される見込み。 大相撲を主題とした作品 テレビゲーム 好角家を参照 1987年5月に笠松競馬場でデビュー。8連勝、重賞5勝を含む12戦10勝を記録した後、1988年1月に中央競馬へ移籍し、重賞12勝(うちGI4勝)を記録した。その活躍と人気の高さはハイセイコーと並び称せられ、第二次競馬ブームを巻き起こす大きな要因のひとつとなったといわれる。32戦22勝(地方競馬時代含む)の成績を残して競走馬を引退した後は種牡馬となったが、中央競馬の重賞優勝馬を輩出することはできず、2007年に種牡馬を引退した。 誕生に至る経緯夜行バス オグリキャップの母であるホワイトナルビーは競走馬時代に馬主の小栗孝一が所有し、笠松競馬場の調教師鷲見昌勇が管理した。ホワイトナルビーが繁殖牝馬となった後はその産駒の競走馬はいずれも小栗が所有し、鷲見が管理していた。 1984年のホワイトナルビーの交配相手には笠松競馬場で優秀な種牡馬成績を収めていたダンシングキャップが選ばれた。これは小栗の意向によるもので、鷲見はダンシングキャップの産駒に気性の荒い競走馬が多かったことを理由に反対したが、最終的に提案が実現した[1]。 なお、オグリキャップは仔分けの馬[2]の馬であり、出生後にセリ市に出した場合の想定額を小栗が稲葉牧場に対して支払うことで産駒の所有権を取得する取り決めがされていた。オグリキャップについて小栗が支払った額は250万円[3]とも500万円[4]ともされる。 誕生・デビュー前 稲葉牧場時代格安航空券 国内 オグリキャップは1985年3月27日の深夜に誕生した。誕生時には右前脚が大きく外向[5]しており、出生直後はなかなか自力で立ち上がることができず、牧場関係者が抱きかかえて初乳を飲ませた[6]。これは競走馬としては大きなハンデキャップであり、障害を抱えた仔馬に対する願いもあって血統名(幼名)は「ハツラツ」と名付けられた[7][8]。なお、ハツラツの右前脚の外向は牧場長の稲葉不奈男が削蹄(蹄を削ること)を行い矯正に努めた結果、成長するにつれて改善されていった[9]。 ホワイトナルビーは乳の出があまり良くなく、加えて仔馬に授乳することを嫌がることもあったため、出生後しばらくのハツラツは痩せこけて見栄えのしない馬体だった。しかしハツラツは雑草もかまわず食べるなど食欲が旺盛で、2歳の秋頃には他馬に見劣りしない馬体に成長した[10]。気性面では前に他の馬がいると追い越そうとするなど負けん気が強かった[11]。 美山育成牧場時代 1986年の10月、ハツラツは岐阜県山県郡美山町(現:山県市)にあった美山育成牧場[12]に移り、3ヶ月間馴致が施された。当時の美山育成牧場では1人の従業員(吉田謙治)が30頭あまりの馬の管理をしていたため、すべての馬に手が行き届く状況ではなかったが、ハツラツは放牧地で一頭だけ離れて過ごすことが多かったために吉田の目を引き、調教を施されることが多かった[13]。バリ 当時のハツラツの印象について吉田は、賢くておとなしく、また人なつっこい馬だったが、調教時には人間を振り落とそうとして跳ねるなど勝負を挑んでくることもあり、調教というよりも一緒に遊ぶ感覚だったと語っている[14]。また、ハツラツは育成牧場にいた馬の中では3,4番手の地位にあり、他の馬と喧嘩をすることはなかったという[15]。食欲については稲葉牧場にいた頃と同じく旺盛で、その点に惹かれた馬主が鷲見に購入の申し込みをするほどであった[16]。 競走馬時代 笠松競馬時代沖縄旅行 レンタカー 競走内容 1987年1月に笠松競馬場の鷲見昌勇厩舎に入厩。登録馬名は「オグリキヤツプ」[17]。 ダート800mで行われた能力試験を51.1秒で走り合格した[18]。 5月19日のデビュー戦ではマーチトウショウの2着に敗れた。その後2連勝したが、4戦目で再びマーチトウショウの2着に敗れた。5戦目でマーチトウショウを降して優勝して以降は重賞5勝を含む8連勝を達成した。夜行バス 前述ようにオグリキャップはデビュー戦と4戦目の2度にわたってマーチトウショウに敗れている。敗れたのはいずれもダート800mのレースで、短距離戦では大きな不利に繋がるとされる出遅れ(スタート時にゲートを出るタイミングが遅れること)をした[19]。一方オグリキャップに勝ったレースでマーチトウショウに騎乗していた原隆男によると、同馬はオグリキャップがエンジンのかかりが遅い馬であったのに対し、「一瞬の脚が武器のような馬で、短い距離が合っていた」[20]。また、オグリキャップの厩務員は4戦目と5戦目の間の時期に三浦裕一から川瀬友光に交替している[21]が、川瀬が引き継いだ当初、オグリキャップの蹄は蹄叉腐乱(蹄の手入れを怠ったために蹄の内側が腐る疾病)を起こしていた。川瀬は、引き継ぐ前のオグリキャップは蹄叉腐乱が原因で競走能力が十分に発揮できる状態ではなかったと推測している[22]。 佐橋五十雄への売却と中央競馬への移籍 1988年1月、馬主の小栗はオグリキャップを2000万円で佐橋五十雄に売却し[23]、佐橋は中央競馬への移籍を決定した。JRA移籍に際して、登録名を発音と同じ「オグリキャップ」に変更。 オグリキャップが活躍を続ける中で同馬を購入したいという申し込みは多数あり、とくに中京競馬場の芝コースで行われた8戦目の中京盃を優勝[24]して以降は申込みが殺到した[25]。また、小栗に対してオグリキャップの中央移籍を勧める声も出た[26]。しかしオグリキャップに関する小栗の意向はあくまでも笠松競馬での活躍にあり、また所有する競走馬は決して手放さないという信念を持っていたため、すべて断っていた。これに対しもっとも熱心に小栗と交渉を行ったのが佐橋で、中央競馬の馬主登録をしていなかった小栗に対して「このまま笠松のオグリキャップで終わらせていいんですか」「馬のためを思うなら中央競馬へ入れて走らせるべきです」と再三にわたって説得したため、小栗は「馬の名誉のためには早めに中央入りさせた方がいい」との判断に至り、「中央の芝が向いていなければ鷲見厩舎に戻す」という条件付きで同意した[27]。また、佐橋はオグリキャップが中央競馬のレースで優勝した際にはウイナーズサークルでの記念撮影に招待し、種牡馬となった場合には優先的に種付けする権利を与えることを約束した[28][29]。 なお、鷲見は小栗がオグリキャップを売却したことにより自身の悲願であった東海ダービー制覇の可能性が断たれたことに怒り、笠松競馬場での最後のレースとなったゴールドジュニアのレース後、小栗が関係者による記念撮影を提案した際にこれを拒否した[30]。 中央競馬時代 4歳(1988年)高速バス 中央競馬移籍後のオグリキャップは栗東トレーニングセンターの調教師瀬戸口勉の厩舎で管理されることが決まり、1月28日に鷲見厩舎から瀬戸口厩舎へ移送された。 競走内容 オグリキャップの中央移籍後の初戦にはペガサスステークスが選ばれた。レースでは序盤は後方に控え、第3コーナーから馬群の外を通って前方へ進出を開始し、第4コーナーを過ぎてからスパートをかけて他馬を追い抜き、優勝した。出走前の時点では陣営の期待は必ずしも高いものではなく[31]、優勝は予想を上回る結果だった[32]。 移籍2戦目には毎日杯が選ばれた。このレースでは馬場状態が追い込み馬に不利とされる重馬場と発表され、オグリキャップが馬場状態に対応できるかどうかに注目が集まった[33]。オグリキャップは第3コーナーで最後方の位置から馬群の外を通って前方へ進出を開始し、ゴール直前で先頭に立って優勝した。 オグリキャップはクラシック登録(競走馬が中央競馬のクラシック競走に出走するためにしなければならない登録)をしていなかったため、前哨戦である毎日杯を優勝したにもかかわらず皐月賞に出走できず、代わりに京都4歳特別に出走した。レースでは第3コーナーで後方からまくりをかけ、優勝した[34]。 クラシック登録をしていないオグリキャップは東京優駿(日本ダービー)にも出走することができず、代わりにニュージーランドトロフィー4歳ステークスに出走した[35]。この時オグリキャップには疲労が蓄積し、治療のために注射が打たれるなど体調面に不安を抱えていた[36]が、レースでは序盤は最後方に位置したが向こう正面で前方へ進出を開始すると第4コーナーを通過した直後に先頭に立ち、そのまま優勝した。このレースでのオグリキャップの走破タイムはニュージーランドトロフィー4歳ステークスのレースレコ−ドであったにもかかわらず、騎乗していた河内洋はレース中に一度も本格的なゴーサインを出すことがなかった[37]。(レースに関する詳細については第6回ニュージーランドトロフィー4歳ステークスを参照)SEO対策 続く高松宮杯では、中央競馬移籍後初[38]の古馬との対戦、とくに重賞優勝馬でありこの年の宝塚記念で4着となったランドヒリュウとの対戦にファンの注目が集まった。レースではランドヒリュウが先頭に立って逃げたのに対してオグリキャップは序盤は4番手に位置して第3コーナーから前方への進出を開始し、第4コーナーで2番手に立つと直線でランドヒリュウを交わし、中京競馬場芝2000mのコースレコードを記録して優勝した。この勝利により、地方競馬からの移籍馬による重賞連勝記録である5連勝[39]を達成した。